近年の噴火-明治以降-
1910年有珠山噴火
1910(明治43)年7月21日からはじまった噴火では、東京帝国大学の大森房吉教授が、世界ではじめて地震計による火山性地震の観測、精密測量による地殻変動の検出など、先駆的研究を行った。また、大森教授の講義を聴講した室蘭警察署長飯田誠一が、前兆地震から噴火を察知し、有珠山から12キロメートル以内に住む住民に事前に避難を命令。犠牲者ゼロを実現した。
1977年有珠山噴火
1977(昭和52)年8月6日未明、有珠山では32年ぶりの火山活動を告げる前兆地震がはじまり、午前3時頃からは山麓で人が感じるほどの強さとなった。午前11時30分、室蘭地方気象台は、この異変を火山情報として発表。その後、地震は時間とともに激しくなっていった。翌7日午前9時12分、真っ白な噴煙が突如、有珠山山頂から立ち昇った。1977年噴火のはじまりだ。小有珠のふもとから音もなくモクモクと上る噴煙に、現場に居合わせた多くの観光客は見とれ、噴煙をバックに写真を撮る者もあった。
2000年有珠山噴火
2000年3月31日。噴火は有珠山の西山西麓で始まった。4月1日には金比羅山で噴火。金比羅山の火口から吹き出した熱泥流が温泉街に迫った。
一方、山頂噴火の危険も続いていた。
西山西麓での最初の噴火が始まってから約1時間経過した3月31日午後2時30分、国は、伊達市に有珠山非常災害現地対策本部を設置し、最初の現地対策本部合同会議を開催した。この会議では、山頂噴火の可能性を想定した避難計画が検討された。噴火は西山西麓ではじまったが、各種観測データは山頂噴火の兆候を示していた。山頂噴火は大規模な火砕流を発生させやすい。有珠山では、江戸時代に起こった4度の噴火で、山頂からの火砕流や火砕サージが山麓を襲っている。観測班の緊張は続いた。
3月31日、現地対策本部合同会議後、周辺3自治体は、有珠山東山麓などへ避難対象地域を拡大した。虻田町(現洞爺湖町)市街地全域が避難対象となった。4月上旬の避難対象者数は、3市町あわせて約1万6000人におよんだ。
6市町に約30カ所の避難所がつくられ、長い人で5ヶ月にわたる避難所暮らしがはじまった。西山西麓では急速な隆起がおこり、4月5日午後9時35分、火山噴火予知連は「西山の西麓に顕著な地形変動、溶岩ドーム活動に移る可能性が高い、爆発的な噴火が発生するとすれば、この2〜3日から2週間以内の可能性が高い」との見解を発表した。
4月に入って有珠山西麓では、 爆発と地殻変動が続き被害が広がっていった。金比羅山の火口からは熱泥流が発生し、4月7日〜10日にかけて勢いがピークに達した。4月7日、熱泥流は流路工からあふれ、導流堤に沿って洞爺湖内に流れた。9日〜10日、熱泥流は国道にかかった木の実橋など二つの橋を押し流し、町営温泉、図書館を破壊、埋積。また約5ヶ月にわたり西麓で地殻変動が続き、西山山麓は標高差で約80メートルも隆起。国道230号と周辺の建物などの地殻変動による破壊が進行した。
4月から5月にかけて西麓での火山活動が徐々に低下。5月22日、火山噴火予知連ははじめて「終息」に触れた見解を発表。7月10日、さらに終息に向け踏み込んだ見解を発表し、最後まで避難生活を続けていた洞爺湖温泉地域住民の避難指示解除につながった。その後8月に入り西麓での隆起は停滞し、9月に沈降へと反転した。1977年噴火では、有珠山の隆起活動が急激に低下し、その後わずかに沈降に反転したことが終息判断の決め手となった。2000年噴火でも1977年噴火の終息時と同じ現象が確認され、マグマの活動は終息した。その後も、地熱活動は今でも続いている。